会長の言葉
豪徳寺境内の柳松のこと会長 石橋鯉城
去る11月17日午後、本部で書簡展の図録作成の為に打ち合わせを済ませて、3時より此の度の豪徳寺に於ける鳴鶴揮毫碑採拓事業について採拓担当の山本陽一先生との打ち合わせ会を持った。机上でご相談を進め、採拓の条件や道具立てについての話をあらかたまとめ、やはり現地で採拓の足場作りを実地に計測しなくてはと、急遽雨模様で少し暗くなりかけていたが4時に神保町を出発、4時半には到着して、「忠正公神道碑」と「鳴鶴先生碑銘」の2碑だけは木製の足場作りをと決断し、来たる23日の打ち合わせ会に間に合わせて検討が出来た。
その他、小さいものから順次採拓とその順序も大方決めることも出来、日暮れて桜の紅くなった葉が黒ずんだ処で下見分を終え、23日の採拓事業開始式の準備も無事終える事が出来、一安心と同時にこれからのことを考えると時間も迫っているので緊張と責任に身も引き締まる思いがした。
2007年から豪徳寺には足繁く通っているが、種々なことに気付かされもし、教えられて勉強させらている。水口藩士の巌谷一六翁と彦根藩士日下部鳴鶴との友情とその同志的結合の契機は、赤鋒隊事件以来なのだろうか、井伊大老暗殺後、そして廃藩置縣後の彦根藩井伊家の家格の維持は、宇津木六之丞家老と長野主繕成敗の革命的行動の主体とは、井伊大老の墓銘が活字風で、最後の藩主直憲公の墓銘も、神道碑も鳴鶴の自書により建立され、直憲公が大老の直弼公にも勝る正二位に任じられているのは……。
鳴鶴先生は何故直弼公37回忌の記録をそっと直弼公墓の傍に置かれたのかと。遠城謙道師のお墓と桜田殉難八士之碑もまた直弼公のお墓の横に、幕藩体制下の墓制ではあり得ないことだが、公をお守りするようにその形を整えている。
このように先人の心が少しずつ伝わってくるが、その手掛かりをこそ残しておかねばと思うのである。去る11月17日の実地見分の折には、墓側の37回忌の三角石は場所が変わり、柳松はこれは切り株の跡が白々と残っていた。柳と松ではなく松葉の垂れた一本の松のことで、特別に大老が愛されたとのことだった。それも今はない。
『不二誌一般版』平成23年1月号より